長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
宮本常一と長崎
Miyamoto Tsuneichi and Nagasaki
(4)離島・樺島をゆく➀
(現在の樺島港)
まず、宮本は樺島の港の歴史について、帆船時代には風待ち港として栄え、江戸中期にはホシカ(イワシを乾燥させた肥料)の出荷港として栄えたと記しています。宮本が敬愛してやまなかった江戸時代の山伏・野田泉光院(1756-1835)は、文化10(1813)年に樺島を訪れ、「当所は湊宜しき故、大船多く入津す」などと記していますが(『日本九峰修行日記』)、樺島滞在中の宮本は、泉光院を自分に重ね合わせていたのかもしれません。
(安永2(1773)年の内済絵図(長崎歴史文化博物館蔵)、左下に樺島)
港に関連して、宮本は民俗学的視点からイワシの乾棚にも注目しています。
港の中は乾棚でうずまっており、真中にほんの少々水路がのこされているだけである。乾棚はすべて水中に杭をうち、その上に棚をつくったもので、棚は丸竹をならべてつくってある。このような棚は対岸の脇岬にもあるが、脇岬はとうていおよぶべくもないほどであり、樺島のイワシ加工業がいかに盛んであったかを物語っている。
イワシの乾棚については、江戸時代の国学者・中島広足(1792-1864)が天保4(1833)年に記した『樺島浪風記』に、「此あたりにて、かけといひて、岸より海の上に、すのこのごとくつくり出して、鰯を干すもの」とあり、江戸時代から樺島の風物であったことがわかります。これについて宮本は、土地の狭いことがこうした風景を生み出したと指摘しています。彼が撮影した下記の写真には、イワシの乾棚が海際はもちろん、山際(金比羅神社付近)にも設けられていたことが写し出されており、樺島の漁業民俗の独自性を考える上で、貴重な資料といえます。
(宮本が撮影したイワシの乾棚(周防大島文化交流センター提供))
(つづく)
(4) Visiting the Remote Kaba Island [1]
(現在の樺島港)
まず、宮本は樺島の港の歴史について、帆船時代には風待ち港として栄え、江戸中期にはホシカ(イワシを乾燥させた肥料)の出荷港として栄えたと記しています。宮本が敬愛してやまなかった江戸時代の山伏・野田泉光院(1756-1835)は、文化10(1813)年に樺島を訪れ、「当所は湊宜しき故、大船多く入津す」などと記していますが(『日本九峰修行日記』)、樺島滞在中の宮本は、泉光院を自分に重ね合わせていたのかもしれません。
(安永2(1773)年の内済絵図(長崎歴史文化博物館蔵)、左下に樺島)
港に関連して、宮本は民俗学的視点からイワシの乾棚にも注目しています。
港の中は乾棚でうずまっており、真中にほんの少々水路がのこされているだけである。乾棚はすべて水中に杭をうち、その上に棚をつくったもので、棚は丸竹をならべてつくってある。このような棚は対岸の脇岬にもあるが、脇岬はとうていおよぶべくもないほどであり、樺島のイワシ加工業がいかに盛んであったかを物語っている。
イワシの乾棚については、江戸時代の国学者・中島広足(1792-1864)が天保4(1833)年に記した『樺島浪風記』に、「此あたりにて、かけといひて、岸より海の上に、すのこのごとくつくり出して、鰯を干すもの」とあり、江戸時代から樺島の風物であったことがわかります。これについて宮本は、土地の狭いことがこうした風景を生み出したと指摘しています。彼が撮影した下記の写真には、イワシの乾棚が海際はもちろん、山際(金比羅神社付近)にも設けられていたことが写し出されており、樺島の漁業民俗の独自性を考える上で、貴重な資料といえます。
(宮本が撮影したイワシの乾棚(周防大島文化交流センター提供))
(つづく)