長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
晩年の梅屋庄吉と長崎
Umeya Shokichi in His Later Years and Nagasaki
雑誌「長崎」への寄稿
昨年度、長崎歴史文化博物館で開催された特別企画展「孫文・梅屋庄吉と長崎」。その展覧会に関連して、長崎出身の実業家、梅屋庄吉について、今まで何回か、このコーナーで扱ってきました。今回は東京において、活動写真業で成功したあとの梅屋庄吉と長崎の関連について、触れたいと思います。
26歳で長崎を飛び出し、香港やシンガポールで写真業を立ち上げて成功したあと、38歳で日本に帰国しました。以後は東京を拠点に新しく活動写真業を営み成功をおさめます。
しかし、その後も長崎とはずっと関わりを持っています。梅屋が残した日記やアルバムの中にも長崎との関連を示すものはいくつか残っていますが、今回は長崎に残る史料を2点紹介します。
これは、特別展「孫文・梅屋庄吉と長崎」でも展示されていた史料ですが、大正14(1925)年に刊行された雑誌です。この七月号は第1巻第2号となっています。月刊か季刊かはわかりませんが、創刊されたのはこの年か、または前年でしょう。現在、この号しか確認できていませんので、その前後も含めて詳細はわかりません。
●梅屋庄吉が出版した本
ちなみに梅屋が出版した本は合計3冊あり、以下がその3冊です。
(1) 『活動写真百科宝典』明治44(1911)年12月
(2) 『活動写真撮影術宝典』大正 7(1918)年6月
(3) 『活動写真は如何にして造られるか』大正10(1921)年1月
(1)は今で言う視聴覚教材として役に立つフィルムを選定し(計364本)、その概要をまとめて出版したもの。(2)・(3)は梅屋が翻訳したものを出版したもの。
●雑誌「長崎」とは
どのようなきっかけで梅屋が出版した本の内容が、この雑誌に再掲出されることになったか詳細はわかりません。
この雑誌の性格から見てみましょう。雑誌「長崎」は、長崎県出身の在京学生(特に明治大学が多い)らの親交団体である長崎県学生会が母体となって、長崎通信社という会社を立ち上げ、発行したもののようです。
その主幹となった林卯吉朗の巻頭の辞によると、「郷土の頽廃」「母国の危機」(=外来思想ばかりを尊重しようとする愚に陥りつつある国民)を嘆きつつ、青年の「奮闘・努力」で「将来には光明輝く栄冠」あり、という未来観のもとで県下の青年たちに奮起を促すために創刊したものであるとのことです。
この年の3月に治安維持法とともに普通選挙法が制定され、まさに時代は大正デモクラシーのまっただ中のことです。
主な執筆者は長崎県出身の国会議員・県会議員・長崎市会議員や学者及び学生らです。内容は、今日の長崎の状況を憂い、その復興策を論じ、時局を論じ、郷土出身の成功者を紹介しています。
おそらく、梅屋も郷土出身の成功者として、その著作を紹介する意味があったもの思われます。
この雑誌の余白を埋める形で大村純英氏の寄稿文があります。また、長崎県学生会の会長が「大村会長」という記述もあります。同一人物でしょうか。 いうまでもなく、大村純英氏は、かつての大村藩の大名家、32代目の当主です。
実は、この大村純英氏の名前を梅屋の残した「永代日記」の中に見ることができます。
●大正15(1926)年1月18日の梅屋邸で開催された園遊会と㟢友会
大正14(1925)年の3月に孫文の訃報に接して気落ちしている梅屋を励ますために、かつてのMパテー社の従業員たちが、その年の11月に激励会を開催しました。それが、後に親睦団体としてのパテー倶楽部発足につながり、発足会が大正15(1926)年1月18日に梅屋邸で開催されました。梅屋が自伝の小冊子「わが影」を作成して配布しているのはこのときのことです。
梅屋の「永代日記」にその園遊会の案内者名簿のメモがあります。犬養毅・頭山満を筆頭に50名ほどの名前が列記されていますが、その中に大村純英氏の名前もありました。実際に、案内状が出されたか、または出席したかどうかについては不明ですが、梅屋が大村純英氏と連絡を取っていたことは間違いありません。
この園遊会は雑誌「長崎」(七月号)発行の翌年のことです。長崎通信社の雑誌「長崎」に著作が再掲載されたことを考えても、活動写真業界で名を成した梅屋のことは、在京の長崎県出身者たちの間でも、よく知られており、交流もあったということでしょう。
「永代日記」の中に大正15年5月20日のこととして「㟢友会 三十四名来」という記述が見えます。この㟢友会とは長崎県人会のことかもしれません。
His Contribution to a Magazine Titled The Nagasaki
昨年度、長崎歴史文化博物館で開催された特別企画展「孫文・梅屋庄吉と長崎」。その展覧会に関連して、長崎出身の実業家、梅屋庄吉について、今まで何回か、このコーナーで扱ってきました。今回は東京において、活動写真業で成功したあとの梅屋庄吉と長崎の関連について、触れたいと思います。
26歳で長崎を飛び出し、香港やシンガポールで写真業を立ち上げて成功したあと、38歳で日本に帰国しました。以後は東京を拠点に新しく活動写真業を営み成功をおさめます。
しかし、その後も長崎とはずっと関わりを持っています。梅屋が残した日記やアルバムの中にも長崎との関連を示すものはいくつか残っていますが、今回は長崎に残る史料を2点紹介します。
これは、特別展「孫文・梅屋庄吉と長崎」でも展示されていた史料ですが、大正14(1925)年に刊行された雑誌です。この七月号は第1巻第2号となっています。月刊か季刊かはわかりませんが、創刊されたのはこの年か、または前年でしょう。現在、この号しか確認できていませんので、その前後も含めて詳細はわかりません。
●梅屋庄吉が出版した本
ちなみに梅屋が出版した本は合計3冊あり、以下がその3冊です。
(1) 『活動写真百科宝典』明治44(1911)年12月
(2) 『活動写真撮影術宝典』大正 7(1918)年6月
(3) 『活動写真は如何にして造られるか』大正10(1921)年1月
(1)は今で言う視聴覚教材として役に立つフィルムを選定し(計364本)、その概要をまとめて出版したもの。(2)・(3)は梅屋が翻訳したものを出版したもの。
●雑誌「長崎」とは
どのようなきっかけで梅屋が出版した本の内容が、この雑誌に再掲出されることになったか詳細はわかりません。
この雑誌の性格から見てみましょう。雑誌「長崎」は、長崎県出身の在京学生(特に明治大学が多い)らの親交団体である長崎県学生会が母体となって、長崎通信社という会社を立ち上げ、発行したもののようです。
その主幹となった林卯吉朗の巻頭の辞によると、「郷土の頽廃」「母国の危機」(=外来思想ばかりを尊重しようとする愚に陥りつつある国民)を嘆きつつ、青年の「奮闘・努力」で「将来には光明輝く栄冠」あり、という未来観のもとで県下の青年たちに奮起を促すために創刊したものであるとのことです。
この年の3月に治安維持法とともに普通選挙法が制定され、まさに時代は大正デモクラシーのまっただ中のことです。
主な執筆者は長崎県出身の国会議員・県会議員・長崎市会議員や学者及び学生らです。内容は、今日の長崎の状況を憂い、その復興策を論じ、時局を論じ、郷土出身の成功者を紹介しています。
おそらく、梅屋も郷土出身の成功者として、その著作を紹介する意味があったもの思われます。
この雑誌の余白を埋める形で大村純英氏の寄稿文があります。また、長崎県学生会の会長が「大村会長」という記述もあります。同一人物でしょうか。 いうまでもなく、大村純英氏は、かつての大村藩の大名家、32代目の当主です。
実は、この大村純英氏の名前を梅屋の残した「永代日記」の中に見ることができます。
●大正15(1926)年1月18日の梅屋邸で開催された園遊会と㟢友会
大正14(1925)年の3月に孫文の訃報に接して気落ちしている梅屋を励ますために、かつてのMパテー社の従業員たちが、その年の11月に激励会を開催しました。それが、後に親睦団体としてのパテー倶楽部発足につながり、発足会が大正15(1926)年1月18日に梅屋邸で開催されました。梅屋が自伝の小冊子「わが影」を作成して配布しているのはこのときのことです。
梅屋の「永代日記」にその園遊会の案内者名簿のメモがあります。犬養毅・頭山満を筆頭に50名ほどの名前が列記されていますが、その中に大村純英氏の名前もありました。実際に、案内状が出されたか、または出席したかどうかについては不明ですが、梅屋が大村純英氏と連絡を取っていたことは間違いありません。
この園遊会は雑誌「長崎」(七月号)発行の翌年のことです。長崎通信社の雑誌「長崎」に著作が再掲載されたことを考えても、活動写真業界で名を成した梅屋のことは、在京の長崎県出身者たちの間でも、よく知られており、交流もあったということでしょう。
「永代日記」の中に大正15年5月20日のこととして「㟢友会 三十四名来」という記述が見えます。この㟢友会とは長崎県人会のことかもしれません。