Chagrin of General Wenwei Bai [2]

~Still a Long Way to Go for a Revolution~

ところで、あの琵琶の五言絶句はどのようないきさつで書かれたのでしょうか。

 

柏将軍の住居は、南山手、山里村以外にもあって、龍吟橋の石碑中川町のカルルス温泉にも半年間滞在していたという回想の記録(縄田順子「カルルスの頃」)があります。実際そこには、柏文蔚が揮毫し、名前が刻まれた「龍吟橋」の石碑が残っていますし(現在は鳴滝に移設)、しばしばカルルス温泉を訪れたことは間違いないようです。ちなみにカルルスとはチェコの有名な鉱泉のことで、この成分でもって人工的なカルルス温泉がつくられ、長崎の奥座敷となっていました。

 写真の琵琶は上西山町にお住まいの松島氏ご夫妻より寄贈されたものです。その際松島夫人は琵琶の由来について、昔孫文が夫人の中川町の実家である川原家に来て祖父と碁を打っていた、漢詩の墨跡はその時書いてもらった、と言われたのです。勿論、碁を打ちに来ていたのは孫文の盟友であった柏文蔚でした。琵琶に書かれた「乙卯孟夏柏文蔚題」の乙卯(きのとう)は1915年の干支(えと)、孟夏(もうか)は陰暦四月のことですから、この五言絶句は長崎を発つ直前に書かれたものです。川原家への惜別の意味合いがあったのでしょう。まさしく亡命革命家と長崎市民の親しい交流を証明する貴重な記念の品です。

 

最後に、五言絶句には柏将軍のどのような気持ちが込められているのでしょうか、少し推測してみましょう。

東瀛(とうえい)は日本のことです。日本を去るに当たって柏将軍は、革命いまだ遠しという無念の思いをいだきながら作詩したのでしょう。この後再び日本に来ることができるか誰もわからない、今宵風月の夜に琵琶を一曲奏でれば、憂いも喜びも明らかによみがえってくる、と私なりに解釈しました。読者の皆さんはどのように解釈されますか。
この琵琶は、長崎歴史文化博物館で開催中(~H24.3.25)の特別企画展「孫文・梅屋庄吉と長崎」に展示されています。なお、この小文は『長崎が出会った近代中国』(横山宏章 海鳥社)に多くを依拠しました。併せてお読みください。

【長崎県参与 本馬貞夫】