長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
梅屋庄吉をたずねて ~19世紀末香港日本人社会の実態から~ (1)
Visiting Umeya Shokichi~Realities of the Japanese Community in Hong Kong around the End of the 19th Century~ (1)
梅屋庄吉をたずねて ~19世紀末香港日本人社会の実態から~ (1)
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梅屋と孫文の関係についてはこれまでにも多くの研究者が言及してきましたが、一般的な知名度は決して高いとは言いがたい状況にありました。しかし近年、小坂文乃氏『革命をプロデュースした日本人』(講談社,2009)の出版などより、二人の関係が広く世に知れ渡るようになりました。
一方、梅屋と孫文が出会ったばかりの頃については、そもそも絶対的に史料が少なく、未だに不透明な部分が多くあります。中でも大きな謎の一つとして、1895年(明治28)に梅屋と孫文が出会った場所とされる香港の梅屋写真館(梅屋照相館)の実情が不明であることが挙げられます。
先行研究により、梅屋写真館が大正初期(1910年代)には「香港クイーンズロード・セントラル・8A」にあり、また当時は珍しかった出張撮影を行ったことで繁盛していたことなどが明らかになっていますが、具体的な経営規模(たとえば資本金や構成員数)や、その住所は現在の香港のどの辺りだったのかなど、詳しいことは謎のままです。
本コラムでは、国内外のさまざまな史料に基づいて、1895年ごろの梅屋写真館とそれをとりまく香港日本人社会の実態を再現していきたいと思います。
2. 日清戦争前後期香港における日本人実業家の活動
日本政府が在外邦人の実業者の活動を把握し始めたのは日露戦争のころからで、開戦前の在外邦人実業家に関する記録は、残念ながら多くはありません。こうした史料状況においては、編纂史料とはいえ奥田乙治郎氏『明治初年に於ける香港日本人』(台湾総督府熱帯産業調査会,1937)が参考文献として貴重です。
同書によれば、香港における日本人の歴史は1937年(昭和12)にいたるまでに三期に分けることが可能です。第一期は日清戦争(1894)以前、第二期は日清戦争から明治末年(1912)、第三期は大正以後です。本コラムが主たる考察対象とする1895年は第一期と第二期の端境期にあたります。
香港日本人倶楽部史料編集委員会編『香港日本人社会の歴史 江戸から平成まで』(香港日本人倶楽部,2006)には、第一期の日本人人口の変遷が詳細に記録されています。明治期からの記録のみ抜き出せば、1878年(明治11)時点で男性26名、女性60名とあります。総数86名にすぎませんが、明治以前と比べれば「増大」であったとのこと。女性の数が多いのは、そのほとんどが娘子軍(からゆきさん)だったからです。1887年(明治20)時点では、性別は不明ですが総数163名、内娘子軍53名と、邦人の数はほぼ倍まで増えました。 この写真は、このころの香港クイーンズロード近辺を東側から撮影したものです。梅屋写真館は向かって左側、手前から二つ目の建物の左奥二階に、1895年ごろに開店したと推測されています。

1900年(明治33)に湾仔わんちゃいの埋立てが終わり、香港全体が以前よりも活気を帯びるようになりました。これにあわせて日本人実業家や大企業の支店がクイーンズロード・セントラルに進出をはじめました。1901年(明治34)時点の日本人人口は男性197名、女性224名とあります。
このころから、香港に滞在していた日本人実業家を個人レベルで確認することが『明治初年に於ける香港日本人』により可能になります。それを表にまとめたのが、下の表「在香港日本人実業家等分布表(1901年時点)」です。(原典で未記載の部分は空欄としました)

ようやく梅屋が登場したところですが、残念ながら今回分の紙幅が尽きてしまいました。梅屋が経営していた写真館の経営状況については、次回以降、より詳しく見ていこうと思います。(つづく)
Visiting Umeya Shokichi~Realities of the Japanese Community in Hong Kong around the End of the 19th Century~ (1)
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梅屋と孫文の関係についてはこれまでにも多くの研究者が言及してきましたが、一般的な知名度は決して高いとは言いがたい状況にありました。しかし近年、小坂文乃氏『革命をプロデュースした日本人』(講談社,2009)の出版などより、二人の関係が広く世に知れ渡るようになりました。
一方、梅屋と孫文が出会ったばかりの頃については、そもそも絶対的に史料が少なく、未だに不透明な部分が多くあります。中でも大きな謎の一つとして、1895年(明治28)に梅屋と孫文が出会った場所とされる香港の梅屋写真館(梅屋照相館)の実情が不明であることが挙げられます。
先行研究により、梅屋写真館が大正初期(1910年代)には「香港クイーンズロード・セントラル・8A」にあり、また当時は珍しかった出張撮影を行ったことで繁盛していたことなどが明らかになっていますが、具体的な経営規模(たとえば資本金や構成員数)や、その住所は現在の香港のどの辺りだったのかなど、詳しいことは謎のままです。
本コラムでは、国内外のさまざまな史料に基づいて、1895年ごろの梅屋写真館とそれをとりまく香港日本人社会の実態を再現していきたいと思います。
2. 日清戦争前後期香港における日本人実業家の活動
日本政府が在外邦人の実業者の活動を把握し始めたのは日露戦争のころからで、開戦前の在外邦人実業家に関する記録は、残念ながら多くはありません。こうした史料状況においては、編纂史料とはいえ奥田乙治郎氏『明治初年に於ける香港日本人』(台湾総督府熱帯産業調査会,1937)が参考文献として貴重です。
同書によれば、香港における日本人の歴史は1937年(昭和12)にいたるまでに三期に分けることが可能です。第一期は日清戦争(1894)以前、第二期は日清戦争から明治末年(1912)、第三期は大正以後です。本コラムが主たる考察対象とする1895年は第一期と第二期の端境期にあたります。
香港日本人倶楽部史料編集委員会編『香港日本人社会の歴史 江戸から平成まで』(香港日本人倶楽部,2006)には、第一期の日本人人口の変遷が詳細に記録されています。明治期からの記録のみ抜き出せば、1878年(明治11)時点で男性26名、女性60名とあります。総数86名にすぎませんが、明治以前と比べれば「増大」であったとのこと。女性の数が多いのは、そのほとんどが娘子軍(からゆきさん)だったからです。1887年(明治20)時点では、性別は不明ですが総数163名、内娘子軍53名と、邦人の数はほぼ倍まで増えました。 この写真は、このころの香港クイーンズロード近辺を東側から撮影したものです。梅屋写真館は向かって左側、手前から二つ目の建物の左奥二階に、1895年ごろに開店したと推測されています。

1900年(明治33)に湾仔わんちゃいの埋立てが終わり、香港全体が以前よりも活気を帯びるようになりました。これにあわせて日本人実業家や大企業の支店がクイーンズロード・セントラルに進出をはじめました。1901年(明治34)時点の日本人人口は男性197名、女性224名とあります。
このころから、香港に滞在していた日本人実業家を個人レベルで確認することが『明治初年に於ける香港日本人』により可能になります。それを表にまとめたのが、下の表「在香港日本人実業家等分布表(1901年時点)」です。(原典で未記載の部分は空欄としました)

ようやく梅屋が登場したところですが、残念ながら今回分の紙幅が尽きてしまいました。梅屋が経営していた写真館の経営状況については、次回以降、より詳しく見ていこうと思います。(つづく)







