Launch of Gunboat Yongfeng (2/2):

Little 830-ton Gunboat Born in Nagasaki

 

 そもそも進水式とは、新造船を初めて水上に浮かべ、船の門出を祝う儀式です。式典は大潮の日、午前中の最高潮位となる時間帯に合わせて行われました。最大の見せ場は、式台と船首をつなぐ支綱(しこう)切断と同時に船体が動き出す場面から始まります。船台進水(船尾進水)の場合は、船体が船台を滑り降りて水面に浮ぶまでの数分間程度です。

 

中華民国海軍の監督官・李國圻(りこくきん)が進水命令書を朗読後、塩田造船所長が支綱を切断したとき、「拍手急霰の如く起り」、五色の民国旗や万国信号旗に飾られた「八百三十噸の愛らしき砲艦」は、海に向かって徐々に動き出しました(1912年6月6日付「長崎新聞」)。日本国内の一般的な進水式ならば、ここで船首の薬玉(くすだま)が割れる仕掛けがあるはずなのですが、この時は違っていました。

 

 

艦の滑り出すと共に三羽の鳩の代りとなるべし船首甲板上に設けたる数十発の爆竹挑ねたる為一生懸命船首に作業中なりし造船所員は眼を円くしたり

(1912年6月6日付「東洋日の出新聞」)

 

 

薬玉が割れ、3羽の鳩が飛び出すところ、かわりに設置されていた爆竹が鳴り響き、耳慣れない爆発音に作業中だった造船所員たちは驚いてしまったというのです。いかにも中国式の景気づけ音響効果とともに、「永豊」は進水しました。

 

 

この進水式には、安藤長崎県知事をはじめとする日本側官民代表者とともに在留各国領事など多くの外国人が来賓として招かれ、国際色豊かなものとなりました。そして「新地在留の主なる紳商並に夫人令嬢」など長崎新地の華僑の人々も家族同伴で招待されていました。これはかつて例のないことでした。
式典の最後に監督官・李國圻は次のように述べています。

 

 

永豊の進水式を挙ぐるに閣下並に諸君の来臨を辱ふしたるは光栄とする所なり。本日当艦が無事進水するを得たるは、偏に三菱造船所の偉大なる技能と盬田所長初め関係者諸君の熱心なる努力の結果にして、満足且つ愉快に堪へず、当艦の威力に依り民国海軍は一勢力を加へたるを喜び、且又艦の名の如く永く豊かに当造船所が永久に栄へんことを祈る。

(1912年6月6日付「長崎新聞」※実際の挨拶は中国語)

 

 

また、1912年6月7日付の東京における新聞では、「李監督は……一場の挨拶を為し、日華両国の親善を希望する抔の語あり。……盬田造船所長是に対して答辞を為し、中華民国の万歳を唱へて散会せり。」(1912年6月7日付「東京朝日新聞」(東京版)朝刊)とも報じられています。祝杯と万歳三唱そして拍手喝采のうちに誕生した「永豊」は、長崎と中華民国関係者のあいだでは、日中両国の親善を象徴する艦としてもとらえられていたようです。この「八百三十噸の愛らしき砲艦」は、中国近代史転換点の重要な舞台となり、のちの日中戦争において日本軍の手で沈められるという数奇な運命をたどります。進水式会場に集った人々のうち、そのような未来を想像できた人は誰もいなかったことでしょう。(おわり)

 

 

 

1921年(大正10)の砲艦「永豊」(齋藤義朗蔵)

 

 

【長崎県文化振興課  齋藤義朗】

 

引用資料)1912年6月6日付「長崎新聞」(長崎県立長崎図書館蔵)

1912年6月6日付「東洋日の出新聞」(長崎県立長崎図書館蔵)

1912年6月7日付「東京朝日新聞」(東京版)朝刊(国立国会図書館蔵)

参考文献)横山宏章著、中国砲艦『中山艦』の生涯(汲古書院、平成14年)