長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
銅座町が初めて長崎くんちに参加した明治22年の記録
Record of Doza-machi’s First Participation in the Nagasaki Kunchi Fenstival in 1889:
「諏訪神社御祭礼踊奉納諸記録」より その1
新たに見つけたこの資料は「諏方神社御祭礼踊奉納諸記録」と題され、明治22年銅座町同盟会によりまとめられたものです(古い資料では「諏訪」ではなく「諏方」と書かれることが多い。長崎歴史文化博物館蔵(画像1))。ただし、罫紙に謄写印刷されたもので、資料の原本ではありません。また、罫紙そのものに印刷されている文字が旧字体の「長崎縣」ではなく「長崎県」となっているので、第二次世界大戦後、新字体が使われるようになってからの写しだと思われます。資料は大きく分けて「銅座町同盟会踊奉納創始の事」と「明治廿二年諏方神社御祭礼奉納踊報告」からなっていて、さらに後者は「傘鉾趣向」、「手踊解題」、「踊奉納費計算表」に分かれています。それでは「銅座町同盟会踊奉納創始の事」から、銅座町が初めて長崎くんちに参加し、踊りを奉納したいきさつを見てみましょう。
続いて明治時代に入ってからのことが書かれています。資料によると、銅座跡は「輻輳」(ふくそう。方々からいろいろな物が一か所に集まること)の地となり、「明治三年」(1870)に至って町名が付けられ長崎くんちの「踊奉納順番」にも加わったとあります。ただし、この「明治三年」は誤りの可能性が考えられます。なぜなら、銅座跡が銅座町と町名が付けられたのは、明治元年(1868)のことです。また、銅座町が初めて長崎くんちに参加したのは明治22年のことですので、踊り町が7年に1度まわってくることを考えれば、明治22年から、7年に3をかけた21年を引いた、明治元年が「踊奉納順番」に加わった年と考えるのが正しいと思われるからです。しかし、幕末から明治初年にかけての長崎くんちの状況について分からないことも多く、もう少し調べる必要があるかも知れません。(つづく)
From the Records of Dances Offered during the Festival at Suwajinja Shrine (1)
新たに見つけたこの資料は「諏方神社御祭礼踊奉納諸記録」と題され、明治22年銅座町同盟会によりまとめられたものです(古い資料では「諏訪」ではなく「諏方」と書かれることが多い。長崎歴史文化博物館蔵(画像1))。ただし、罫紙に謄写印刷されたもので、資料の原本ではありません。また、罫紙そのものに印刷されている文字が旧字体の「長崎縣」ではなく「長崎県」となっているので、第二次世界大戦後、新字体が使われるようになってからの写しだと思われます。資料は大きく分けて「銅座町同盟会踊奉納創始の事」と「明治廿二年諏方神社御祭礼奉納踊報告」からなっていて、さらに後者は「傘鉾趣向」、「手踊解題」、「踊奉納費計算表」に分かれています。それでは「銅座町同盟会踊奉納創始の事」から、銅座町が初めて長崎くんちに参加し、踊りを奉納したいきさつを見てみましょう。
続いて明治時代に入ってからのことが書かれています。資料によると、銅座跡は「輻輳」(ふくそう。方々からいろいろな物が一か所に集まること)の地となり、「明治三年」(1870)に至って町名が付けられ長崎くんちの「踊奉納順番」にも加わったとあります。ただし、この「明治三年」は誤りの可能性が考えられます。なぜなら、銅座跡が銅座町と町名が付けられたのは、明治元年(1868)のことです。また、銅座町が初めて長崎くんちに参加したのは明治22年のことですので、踊り町が7年に1度まわってくることを考えれば、明治22年から、7年に3をかけた21年を引いた、明治元年が「踊奉納順番」に加わった年と考えるのが正しいと思われるからです。しかし、幕末から明治初年にかけての長崎くんちの状況について分からないことも多く、もう少し調べる必要があるかも知れません。(つづく)