Record of Doza-machi’s First Participation in the Nagasaki Kunchi Fenstival in 1889:

From the Records of Dances Offered during the Festival at Suwajinja Shrine (1)

長崎の秋の大祭「長崎くんち」がまもなくはじまります。今年、平成26年(2014)の踊り町は7カ町。寛永11年(1634)にはじまり、今年で380年目を迎える長崎くんちの歴史に、また新たなページが刻まれることと思います。さて以前、本コラムで「不思議な地名「銅座跡」について調べる-なぜ、銅座は「町」ではなく「跡」なのか?-」と題して4回にわたり、現在、長崎市中心部にある銅座町の前身「銅座跡」について述べました。この小論を作成する際、関係資料を調べていく中で、銅座町が明治22年(1889)、長崎くんちに初めて参加した時の記録を見つけました。今回は、前のコラムでふれることができなかった、この記録を紹介したいと思います。

新たに見つけたこの資料は「諏方神社御祭礼踊奉納諸記録」と題され、明治22年銅座町同盟会によりまとめられたものです(古い資料では「諏訪」ではなく「諏方」と書かれることが多い。長崎歴史文化博物館蔵(画像1))。ただし、罫紙に謄写印刷されたもので、資料の原本ではありません。また、罫紙そのものに印刷されている文字が旧字体の「長崎縣」ではなく「長崎県」となっているので、第二次世界大戦後、新字体が使われるようになってからの写しだと思われます。資料は大きく分けて「銅座町同盟会踊奉納創始の事」と「明治廿二年諏方神社御祭礼奉納踊報告」からなっていて、さらに後者は「傘鉾趣向」、「手踊解題」、「踊奉納費計算表」に分かれています。それでは「銅座町同盟会踊奉納創始の事」から、銅座町が初めて長崎くんちに参加し、踊りを奉納したいきさつを見てみましょう。

 

「銅座町同盟会踊奉納創始の事」には、はじめに諏訪神社および長崎くんちの由来について書かれ、次に銅座町の歴史について記されています。その中で、銅座町が明治初年の頃までは単に銅座跡と呼ばれ、長崎の町の列外に置かれていた理由について考察しています。資料によると、この地は鋳銅所および鋳銭所が廃止されたあと、商家が次第に増えていったけれども、数百年もの間、町列外にあったという「余習」(残っている昔の習慣)が存在し、明治初年に至るまで漠然と昔に従ったと思われる、とされています。おそらく当時の銅座町の皆さんにも、なぜ町とならずに銅座跡のままだったのか、理由が分からなかったのでしょう。延享2年(1745)に鋳銭所が廃止されたあと、家が建ち人が住むようになってから、150年近くたった明治22年当時の銅座町の見解として興味深いものです。

続いて明治時代に入ってからのことが書かれています。資料によると、銅座跡は「輻輳」(ふくそう。方々からいろいろな物が一か所に集まること)の地となり、「明治三年」(1870)に至って町名が付けられ長崎くんちの「踊奉納順番」にも加わったとあります。ただし、この「明治三年」は誤りの可能性が考えられます。なぜなら、銅座跡が銅座町と町名が付けられたのは、明治元年(1868)のことです。また、銅座町が初めて長崎くんちに参加したのは明治22年のことですので、踊り町が7年に1度まわってくることを考えれば、明治22年から、7年に3をかけた21年を引いた、明治元年が「踊奉納順番」に加わった年と考えるのが正しいと思われるからです。しかし、幕末から明治初年にかけての長崎くんちの状況について分からないことも多く、もう少し調べる必要があるかも知れません。(つづく)

 

【長崎県文化振興課 石尾和貴】