Nagasaki, Sakamoto Ryoma, and Ships

(2) Wild Wave Affair and the Goto Domain

ワイルウェフ号沈没によって亡くなった乗組員のために慰霊碑が建てられ、新上五島町の江ノ浜に現存しています。この慰霊碑は、長らくその存在が忘れられていましたが、昭和43年(1968)NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」が放映された年、地元の小学校に勤務されていた先生方によって〝再発見〟されました(吉居辰美「坂本竜馬ゆかりのワイル・ウエフ号遭難の慰霊碑発見顛末記」『長崎県教育研究』昭和55年1月号)。また、地元、有川町(現・新上五島町)教育委員会の方による追跡調査の結果、ワイルウェフ号事件について、事件当時、作成された記録の古文書が福岡市において発見されました(『西日本新聞』昭和44年6月19日付)。この古文書が現在どこに保管されているか不明ですが、古文書の写真を紙焼きしたものと思われる資料が長崎歴史文化博物館に収蔵されています(「薩州様御手船異国船形帆前船難船之終始」・画像2)。この資料の内容について興味深い事実を以下紹介します。

 

五島藩は遭難者や海中に沈んだ船体・積荷の捜索を自領内でおこなっただけでなく、近隣の諸藩などにも捜索を依頼しています。実際、大村藩領の平島(現・西海市)と富江五島家領の魚目(現・新上五島町)で遺体が収容され、五島藩に引き渡されています。また、五島藩による船体・積荷の捜索も沈没直後の5月2日から6月15日まで、悪天候の日を除く19日間にわたっておこなわれ、鉄釘のような細かいものから船の帆柱まで、また、鉄砲の身筒などが引き上げられ、薩摩藩に引き渡されています(多くは現地で焼却処分)。海底に沈んだ荷物の引き上げには五島藩領の有川の羽差(捕鯨漁の責任者)や宇久島(現・佐世保市)の海士が動員されています。このようにワイルウェフ号事件は船が沈没した有川(現・新上五島町)だけではなく、いくつかの地域とかかわっていたことが分かります。少々大げさかも知れませんが、これらの地域(現在の西海市や佐世保市)もこの事件を通して〝坂本龍馬ゆかりの地〟と言えるかも知れません。

 

自領内で薩摩藩の船が沈没したわけですから、五島藩は薩摩藩に連絡をおこなう必要がありました。五島藩から薩摩藩への連絡は、長崎にある薩摩藩蔵屋敷に対しておこなわれています。江戸時代、長崎には14の藩が蔵屋敷を置いていました。五島藩と薩摩藩もこの14藩に含まれます。今回のように、長崎に蔵屋敷を置く藩の間の連絡が長崎においておこなわれていることは、長崎が情報の集積地としての機能を果たしていたわけで、たいへん興味深い事例です。ちなみに、五島藩と薩摩藩の蔵屋敷はともに西浜町にあり、隣接していました(「肥前長崎図」長崎歴史文化博物館蔵・画像3)。長崎の薩摩藩蔵屋敷からは役人が現地に派遣され、五島藩との間で話し合いがもたれています。その中で薩摩藩側からは、荷物の引き上げに対するお礼をおこないたいと申し出ています。これに対し五島藩は「相知れ薩州様御用御荷物之事故御断ニ相成候」、つまり、お互い知った藩同士、お礼は必要ないと断っています。五島藩と薩摩藩は近い関係にあったようです。

 

以上見てきたように、ワイルウェフ号事件は坂本龍馬らが関連した事件ということにとどまらず、当時の武器・艦船などの輸入のあり方や、長崎を介しての五島藩と薩摩藩の関係など、多くの事実を教えてくれます。(おわり)

 

【長崎県文化振興課 石尾和貴】