長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
長崎と坂本龍馬と船
Nagasaki, Sakamoto Ryoma, and Ships
その7 長崎遊学者の補遺と坂本龍馬の長崎における滞在先
長崎を活動拠点の1つとしていた坂本龍馬。その龍馬らの亀山社中や海援隊が関係した3つの事件。今回もイカルス号事件を題材として、『続通信全覧』巻34に収録されている「英軍艦水夫両人長崎ニ於テ遭害一件」をもとに考えていきましょう。長崎奉行所が命じた各藩士の事件当日から翌朝までの動向調査に対する回答の中には、藩士の名前に加え、長崎に来ている理由や、滞在先等を記している藩があります。今回はこれを分析してみたいと思います。
諸藩からの回答の内、長崎滞在中の人物の姓名が分かるのは、130人です。ほとんどが藩士(武士)ですが、中には商人・町人を含めて回答している藩もあります。この内、長崎に滞在している理由を学問修行のためと答えているのが、50人います。学問別にまとめると、
医学修行 17人 英学・医学修行 4人 内容不明 1人
砲術修行 13人 航海修行 2人
英学修行 12人 ラッパ修行 1人 合計 50人
となり、医学・砲術・英学修行のために滞在している人がほとんどであることが分かります(50人中、46人)。幕末の長崎で学べる最先端の学問がこれらの分野だったということになるのでしょう。
学問を修めるために江戸時代の長崎を訪れた人々をまとめた『長崎遊学者事典』(平松勘治著、1999年、溪水社)というものがあり、1,052人の人物が収録されています。今回取り上げた学問修行のため長崎に滞在している50人をこの事典で探すと、3人しか見つかりませんでした。これは『長崎遊学者事典』の、遊学後の事蹟を明らかにできなかったものは割愛する、という編集方針が関係しているのかも知れません。3人以外は遊学後の事蹟が分からないのでしょうか。試しに、手元にある、『明治維新人名辞典』(1981年、吉川弘文館)や『日本近現代人名辞典』(2001年、吉川弘文館)で確認すると、『長崎遊学者事典』には収録されていない岡山藩の花房寅太郎(義質)を見出すことができました。この人物などは、長崎遊学者として、正式に加えてもよいかも知れません。ただし、両辞典とも花房は慶応3年3月に出国し、欧米諸国を視察していることになっています。一方、長崎奉行所への岡山藩用達からの回答では同年正月以降用達宅に滞在し、事件当日も外出していないことになっていて、両者は矛盾しています。
さて、「長崎と坂本龍馬と船」と題して数回にわたり本コラムを書いてきましたが、イカルス号事件に関する「英軍艦水夫両人長崎ニ於テ遭害一件」に記されている坂本龍馬のことについてふれて終わりたいと思います。長崎奉行所の藩士動向調査への回答について、土佐藩は別途調査がおこなわれていたため、他藩と同様の回答はなかったと以前述べました。この別途おこなわれた調査の1つに、慶応3年8月19日付け、土佐藩用達である西川易二から提出された、土佐藩士の長崎における滞在先があります。その中で、才谷梅太郎、つまり坂本龍馬は恵美須町廣瀬屋丈助方に止宿しているとあります。当時の恵美須町は現在の恵美須町に加え、電車通りをはさんだ向かい側の中町の一部にまたがる町域を持っていました。廣瀬屋がどこにあったかは分かりませんが、もしこれが分かれば、「坂本龍馬滞在地跡」の案内板ができるかも知れません。(おわり)
(7) Supplementary Notes on Students in Nagasaki and Where Sakamoto Ryoma Stayed When He Was in Nagasaki
長崎を活動拠点の1つとしていた坂本龍馬。その龍馬らの亀山社中や海援隊が関係した3つの事件。今回もイカルス号事件を題材として、『続通信全覧』巻34に収録されている「英軍艦水夫両人長崎ニ於テ遭害一件」をもとに考えていきましょう。長崎奉行所が命じた各藩士の事件当日から翌朝までの動向調査に対する回答の中には、藩士の名前に加え、長崎に来ている理由や、滞在先等を記している藩があります。今回はこれを分析してみたいと思います。
諸藩からの回答の内、長崎滞在中の人物の姓名が分かるのは、130人です。ほとんどが藩士(武士)ですが、中には商人・町人を含めて回答している藩もあります。この内、長崎に滞在している理由を学問修行のためと答えているのが、50人います。学問別にまとめると、
医学修行 17人 英学・医学修行 4人 内容不明 1人
砲術修行 13人 航海修行 2人
英学修行 12人 ラッパ修行 1人 合計 50人
となり、医学・砲術・英学修行のために滞在している人がほとんどであることが分かります(50人中、46人)。幕末の長崎で学べる最先端の学問がこれらの分野だったということになるのでしょう。
学問を修めるために江戸時代の長崎を訪れた人々をまとめた『長崎遊学者事典』(平松勘治著、1999年、溪水社)というものがあり、1,052人の人物が収録されています。今回取り上げた学問修行のため長崎に滞在している50人をこの事典で探すと、3人しか見つかりませんでした。これは『長崎遊学者事典』の、遊学後の事蹟を明らかにできなかったものは割愛する、という編集方針が関係しているのかも知れません。3人以外は遊学後の事蹟が分からないのでしょうか。試しに、手元にある、『明治維新人名辞典』(1981年、吉川弘文館)や『日本近現代人名辞典』(2001年、吉川弘文館)で確認すると、『長崎遊学者事典』には収録されていない岡山藩の花房寅太郎(義質)を見出すことができました。この人物などは、長崎遊学者として、正式に加えてもよいかも知れません。ただし、両辞典とも花房は慶応3年3月に出国し、欧米諸国を視察していることになっています。一方、長崎奉行所への岡山藩用達からの回答では同年正月以降用達宅に滞在し、事件当日も外出していないことになっていて、両者は矛盾しています。
さて、「長崎と坂本龍馬と船」と題して数回にわたり本コラムを書いてきましたが、イカルス号事件に関する「英軍艦水夫両人長崎ニ於テ遭害一件」に記されている坂本龍馬のことについてふれて終わりたいと思います。長崎奉行所の藩士動向調査への回答について、土佐藩は別途調査がおこなわれていたため、他藩と同様の回答はなかったと以前述べました。この別途おこなわれた調査の1つに、慶応3年8月19日付け、土佐藩用達である西川易二から提出された、土佐藩士の長崎における滞在先があります。その中で、才谷梅太郎、つまり坂本龍馬は恵美須町廣瀬屋丈助方に止宿しているとあります。当時の恵美須町は現在の恵美須町に加え、電車通りをはさんだ向かい側の中町の一部にまたがる町域を持っていました。廣瀬屋がどこにあったかは分かりませんが、もしこれが分かれば、「坂本龍馬滞在地跡」の案内板ができるかも知れません。(おわり)