Nagasaki, Sakamoto Ryoma, and Ships

(1) Record of the Purchase of Sailing Ship Wild Wave

坂本龍馬は長崎を活動拠点の1つとしていました。その龍馬らの亀山社中や海援隊が関係した3つの事件が、長崎を舞台に起こりました。これらの事件は現在、それぞれにかかわった船の名前がつけられ、次のように呼ばれています。

・慶応2年(1866)5月 ワイルウェフ号事件
・慶応3年(1867)4月 いろは丸事件
・慶応3年(1867)7月 イカルス号事件  の3つです。

今回は、この内、ワイルウェフ号事件について述べてみます。これは亀山社中が薩摩藩の援助で購入したワイルウェフ号が、長崎から鹿児島に向かう途中暴風雨に遭い、長崎県の新上五島町沖で沈没、乗組員の多くが亡くなったとされる事件です。

 

安政の開港により、安政6年(1859)長崎・横浜・函館で貿易がはじまりました。輸出入品の取引は基本的には自由貿易でしたが、武器・艦船などの軍用品については例外規定がありました。日米修好通商条約の第3条には「軍用の諸物は日本政府の外へ売るへからす」とあり、日本政府(ここでは江戸幕府ということになります)を通してしか輸入できないきまりでした。この規定はアメリカ以外の諸国との条約にも盛り込まれています。そのため、長崎において各藩が外国商人から軍用品を購入しようとするときは、江戸幕府の出先機関である長崎奉行所を通してしか購入できませんでした。長崎での軍用品の取引については、安政6年以降、各藩が長崎奉行所に提出した購入願の綴りが残されています。その内の1冊「慶応二丙寅年 諸家届伺船買入御附札御条約外之船渡来達書」(長崎歴史文化博物館蔵)には、ワイルウェフ号について次のように記されています(画像1)。

 

当港碇泊之英国ゴロウル運送船々号ワイルウヱル買入申度候ニ付、明廿七日八ツ時当港沖運用いたし乗試度奉存候、尤帆前等之工合宜候得者直様買請度御座候間御免被仰付被下度、此段奉願候、以上
三月廿六日  薩州聞役 汾陽次郎右衛門

これによると、薩摩藩の聞役(薩摩藩から派遣された長崎駐在の役人)である汾陽(かわみなみ)次郎右衛門は、イギリス商人ゴロウル(トーマス・グラバーのこと)が持つ帆船を購入したいと願い出ています。このようにワイルウェフ号は長崎奉行所を通して薩摩藩が購入した船でした。ただし、ワイルウェフ号は運送船であって軍用品ではありませんので、この願いは単に購入したことを届けただけと見ることもできます。なお、この取引に龍馬ら亀山社中の人たちがどのようにかかわっていたかについては、長崎奉行所の記録からは分かりません。(つづく)

【長崎県文化振興課 石尾和貴】