長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
長崎奉公の足跡を訪ねて(その1)
Retracing the Footsteps of Nagasaki Magistrates (1)
~江戸・新宿編~
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JR新宿駅から有名百貨店・大型量販店の間を抜けて歩くこと5分,高層ビルに囲まれた一角に常圓寺(常円寺・じょうえんじ・東京都新宿区西新宿7丁目12-5)がある。その境内に入ると都会の中にある寺院とは思えないほど緑に恵まれており,晴れた日の正午頃になると近くのオフィスビルから昼食をとるために人々が集まるいわば都会のオアシスになっている。ここに墓所があるのが江戸後期の旗本,筒井政憲である。
第88代長崎奉行筒井和泉守政憲(つついいずみのかみまさのり)は安永7(1778)年に生まれ,西ノ丸目付・目付(めつけ)などを経て,文化14(1817)年39歳で長崎奉行に就任した。その後,江戸町奉行に転じ20年の長きにわたって同職を勤めている。老中水野忠邦と対立したため天保の改革の頃には冷遇されたが,後には槍奉行・講武所御用などを勤め,安政6(1859)年82歳で死去している。長い経歴の中で特質すべきことは,嘉永6(1853)年と翌年のロシアのエフィム=プチャーチンの来航の際に大目付格のロシア使節応接掛として外交交渉にあたったことがあげられる。当時、75歳の高齢にも関わらず,教養に富みかつその堂々とした態度はロシア側からも賞賛されたと伝えられている。作家吉村昭の小説『落日の宴』はこの時筒井と同じく日本側の交渉担当であった旗本川路聖謨(かわじとしあきら)の生涯をえがいたものだが,この外交交渉にあたった筒井政憲についても詳しく記述されており興味深い。
墓の場所は入口にある新宿区教育委員会の説明板からやや離れて奥の方にありやや分かりにくいが、墓石も大きく風格がある。また筒井が江戸町奉行を勤めていた頃の与力が奉納した石灯籠も傍らにみられる。なお、この墓は平成11年に新宿区の史跡に指定されている。
第88代長崎奉行筒井政憲の墓(新宿区・新宿区史跡)
—Shinjuku, Edo—
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JR新宿駅から有名百貨店・大型量販店の間を抜けて歩くこと5分,高層ビルに囲まれた一角に常圓寺(常円寺・じょうえんじ・東京都新宿区西新宿7丁目12-5)がある。その境内に入ると都会の中にある寺院とは思えないほど緑に恵まれており,晴れた日の正午頃になると近くのオフィスビルから昼食をとるために人々が集まるいわば都会のオアシスになっている。ここに墓所があるのが江戸後期の旗本,筒井政憲である。
第88代長崎奉行筒井和泉守政憲(つついいずみのかみまさのり)は安永7(1778)年に生まれ,西ノ丸目付・目付(めつけ)などを経て,文化14(1817)年39歳で長崎奉行に就任した。その後,江戸町奉行に転じ20年の長きにわたって同職を勤めている。老中水野忠邦と対立したため天保の改革の頃には冷遇されたが,後には槍奉行・講武所御用などを勤め,安政6(1859)年82歳で死去している。長い経歴の中で特質すべきことは,嘉永6(1853)年と翌年のロシアのエフィム=プチャーチンの来航の際に大目付格のロシア使節応接掛として外交交渉にあたったことがあげられる。当時、75歳の高齢にも関わらず,教養に富みかつその堂々とした態度はロシア側からも賞賛されたと伝えられている。作家吉村昭の小説『落日の宴』はこの時筒井と同じく日本側の交渉担当であった旗本川路聖謨(かわじとしあきら)の生涯をえがいたものだが,この外交交渉にあたった筒井政憲についても詳しく記述されており興味深い。
墓の場所は入口にある新宿区教育委員会の説明板からやや離れて奥の方にありやや分かりにくいが、墓石も大きく風格がある。また筒井が江戸町奉行を勤めていた頃の与力が奉納した石灯籠も傍らにみられる。なお、この墓は平成11年に新宿区の史跡に指定されている。
第88代長崎奉行筒井政憲の墓(新宿区・新宿区史跡)







