長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
長崎奉公所の公式記録に記されたジョン万次郎
John Manjiro Mentioned in Official Records Kept by the Nagasaki Magistrate’s Office
その2
今回もジョン万次郎らに対する長崎奉行所による取り調べ記録「嘉永四年 薩州より送越候無人島漂流日本人一件」(長崎歴史文化博物館蔵)を見てみましょう。前回も述べた通り、万次郎らは、嘉永4年(1851)9月晦日(30日)の夕方長崎港に到着、翌10月1日から奉行所による取り調べがはじまります。寛永12年(1635)の「鎖国令」に「異国江日本之船遣之儀、堅停止之事」(『徳川禁令考』前集第6)とあるように、いわゆる「鎖国」の時代、日本人の海外渡航は禁止されていました。外国への漂流は故意におこなわれたわけではありませんが、この「鎖国令」に反したと考えられています。また、外国でキリスト教徒との接触も疑われることから、日本人漂流民は長崎において取り調べを受けたのでした。
万次郎らに対する取り調べ内容は次の通りです(画像3)。
・今年で何歳になるのか
・宗教は何か
・どんな荷物を積み、どこへ行き、いつ頃土佐国を出発したか
・乗り組み人数は何人か
・他に遭難した船はなかったか
・海上で暴風にあい、無人島に漂着したあと、外国船へ助け
られたときのいきさつについて
・土佐国を出発したとき、お金や武器を持っていなかったか
・外国に滞在していたとき、キリスト教を勧められなかった
か、また、商売をしなかったか
・外国をいつ出発し、琉球国へ上陸したいきさつについて
・今年で何歳になるのか
・宗教は何か
・どんな荷物を積み、どこへ行き、いつ頃土佐国を出発したか
・乗り組み人数は何人か
・他に遭難した船はなかったか
・海上で暴風にあい、無人島に漂着したあと、外国船へ助け
られたときのいきさつについて
・土佐国を出発したとき、お金や武器を持っていなかったか
・外国に滞在していたとき、キリスト教を勧められなかった
か、また、商売をしなかったか
・外国をいつ出発し、琉球国へ上陸したいきさつについて
取り調べ開始から土佐藩へ引き渡されるまでの期間は約9カ月あります。この間、連日取り調べがおこなわれていたわけではありません。気分転換も必要だったのでしょう、万次郎らは奉行所の許可を得て、何度か寺社等を参詣しています。記録からは次の5件が確認できます。
(1)嘉永4年11月21日 金毘羅山・聖福寺・福済寺・本蓮寺
(2)同年 12月13日 金毘羅山
(3)嘉永5年 2月25日 金毘羅山・松森社・伊勢宮
(4)同年 閏2月25日 晧台寺・大音寺・大光寺・崇福寺・
清水寺・大徳寺(画像4)
(5)同年 6月16日 祇園社・清水寺
これらの寺社のほとんどは長崎市内に現存しており、ジョン万次郎関連の史跡と呼べるでしょう。
嘉永5年6月19日夕方、万次郎らの受け取りのため、堀部太四郎ら土佐藩士が長崎に到着します。長崎における土佐藩の用達商人・西川三次郎宅へ入り、翌20日、藩士到着が用達の西川三次郎より長崎奉行所へ届けられています(画像5)。土佐藩のように、長崎に蔵屋敷(藩邸)を持たない藩の藩士到着の連絡を用達がおこなっていることは、長崎の商人(町人)である用達が公的な役割を担っていたことを示しており、たいへん興味深い事例です(用達については以前、本コラム「長崎と広島」でも少しふれました)。そして万次郎らは、6月23日、土佐藩へ引き渡されています。前回取り上げた万次郎らに対するお構いなしという判決(「犯科帳」(その1の画像1))は、このとき出されたものです。(つづく)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】
(2)
今回もジョン万次郎らに対する長崎奉行所による取り調べ記録「嘉永四年 薩州より送越候無人島漂流日本人一件」(長崎歴史文化博物館蔵)を見てみましょう。前回も述べた通り、万次郎らは、嘉永4年(1851)9月晦日(30日)の夕方長崎港に到着、翌10月1日から奉行所による取り調べがはじまります。寛永12年(1635)の「鎖国令」に「異国江日本之船遣之儀、堅停止之事」(『徳川禁令考』前集第6)とあるように、いわゆる「鎖国」の時代、日本人の海外渡航は禁止されていました。外国への漂流は故意におこなわれたわけではありませんが、この「鎖国令」に反したと考えられています。また、外国でキリスト教徒との接触も疑われることから、日本人漂流民は長崎において取り調べを受けたのでした。
万次郎らに対する取り調べ内容は次の通りです(画像3)。
・今年で何歳になるのか
・宗教は何か
・どんな荷物を積み、どこへ行き、いつ頃土佐国を出発したか
・乗り組み人数は何人か
・他に遭難した船はなかったか
・海上で暴風にあい、無人島に漂着したあと、外国船へ助け
られたときのいきさつについて
・土佐国を出発したとき、お金や武器を持っていなかったか
・外国に滞在していたとき、キリスト教を勧められなかった
か、また、商売をしなかったか
・外国をいつ出発し、琉球国へ上陸したいきさつについて
・今年で何歳になるのか
・宗教は何か
・どんな荷物を積み、どこへ行き、いつ頃土佐国を出発したか
・乗り組み人数は何人か
・他に遭難した船はなかったか
・海上で暴風にあい、無人島に漂着したあと、外国船へ助け
られたときのいきさつについて
・土佐国を出発したとき、お金や武器を持っていなかったか
・外国に滞在していたとき、キリスト教を勧められなかった
か、また、商売をしなかったか
・外国をいつ出発し、琉球国へ上陸したいきさつについて
取り調べ開始から土佐藩へ引き渡されるまでの期間は約9カ月あります。この間、連日取り調べがおこなわれていたわけではありません。気分転換も必要だったのでしょう、万次郎らは奉行所の許可を得て、何度か寺社等を参詣しています。記録からは次の5件が確認できます。
(1)嘉永4年11月21日 金毘羅山・聖福寺・福済寺・本蓮寺
(2)同年 12月13日 金毘羅山
(3)嘉永5年 2月25日 金毘羅山・松森社・伊勢宮
(4)同年 閏2月25日 晧台寺・大音寺・大光寺・崇福寺・
清水寺・大徳寺(画像4)
(5)同年 6月16日 祇園社・清水寺
これらの寺社のほとんどは長崎市内に現存しており、ジョン万次郎関連の史跡と呼べるでしょう。
嘉永5年6月19日夕方、万次郎らの受け取りのため、堀部太四郎ら土佐藩士が長崎に到着します。長崎における土佐藩の用達商人・西川三次郎宅へ入り、翌20日、藩士到着が用達の西川三次郎より長崎奉行所へ届けられています(画像5)。土佐藩のように、長崎に蔵屋敷(藩邸)を持たない藩の藩士到着の連絡を用達がおこなっていることは、長崎の商人(町人)である用達が公的な役割を担っていたことを示しており、たいへん興味深い事例です(用達については以前、本コラム「長崎と広島」でも少しふれました)。そして万次郎らは、6月23日、土佐藩へ引き渡されています。前回取り上げた万次郎らに対するお構いなしという判決(「犯科帳」(その1の画像1))は、このとき出されたものです。(つづく)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】