John Manjiro Mentioned in Official Records Kept by the Nagasaki Magistrate’s Office

(3)

 

前回は奉行所文書の中のジョン万次郎らに対する取り調べ記録「嘉永四年 薩州より送越候無人島漂流日本人一件」をもとに述べました。今回は同じく奉行所文書に含まれる別の漂流民を取り調べた一件資料「嘉永四年 亥二番唐船ヨリ送来候漂流日本人一件」(長崎歴史文化博物館蔵、画像6)を見てみましょう。これは紀州日高郡の天寿丸の九助ら合計5人に対する長崎奉行所による取り調べ記録です(九助は別名、虎吉とも記されていますが、ここでは九助で統一します)。記録によると九助らは、嘉永2年(1849)、江戸へ蜜柑などを運んだ帰り遠州灘で遭難し、翌年外国船に助けられます。乗組員13人の内、九助ら5人は外国船によりハワイ・オアフ島を経由して中国まで送り届けられ、中国からは唐船(中国の貿易船)により長崎まで送られて来ます。長崎到着は万次郎らと同じ嘉永4年です。この九助らの取り調べ記録には興味深いことに、万次郎らのことが記されています。

 
 

嘉永3年、九助ら5人が外国船に救助されオアフ島に到着したとき、運命的な出会いがあります。記録によると「私共江日本詞ニ而何れより漂流いたし参り候哉と相尋候ニ付、不思議ニ存右異国人江何国之ものニ候哉相尋候処、土佐国中ノ浜万次郎と申もの之由、幼年之頃より此島江参り居候旨申聞」(私どもへ日本語で、どこより漂流して来たのかと尋ねるので、不思議に思いこの異国人へどこの国のものか尋ねると、土佐国中ノ浜の万次郎といい、幼い頃よりこの島へ来ているということだ)と、九助らと万次郎が遭遇し会話を交わしているのです(画像7)。前回取り上げた万次郎らの漂流記録にも、オアフ島でこの天寿丸の九助ら5人と出会ったことは書かれていますが、このような会話の内容までは書かれていません(会話の内容については『通航一覧続輯』第3巻にも記されていますが、少し内容が違っているようです)。また、長期にわたる外国での生活のため、万次郎は日本語が苦手だったともいわれていますが、九助らに対して日本語で話しかけており、万次郎の日本語能力についても少々気になるところです。(つづく)

 

【長崎県文化振興課 石尾和貴】