John Manjiro Mentioned in Official Records Kept by the Nagasaki Magistrate’s Office

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江戸時代、天領(幕府の直轄領)である長崎(現在の長崎市中心部)を支配するため、遠国奉行の一つである長崎奉行が置かれていました。長崎奉行の職掌は都市長崎の行政をおこなうことに加え、いわゆる「鎖国」体制下においても、長崎は海外へ開かれた都市であったため、外交交渉や貿易統制など、外交関係の権限も与えられていました。この外交に関する権限の中には、漂流民の送還に関するものもありました。
 
長崎奉行に関する資料は現在、長崎歴史文化博物館に収蔵されており平成18年(2006)「長崎奉行所関係資料」(1,242点)として国の重要文化財に指定されています(以下、奉行所文書と略します)。この奉行所文書に含まれる日本人漂流民に関する資料としてはまず「犯科帳」があげられます。「犯科帳」については以前、本コラム「「犯科帳」の謎」の中で述べた通り、長崎奉行所の判決記録として有名ですが、中には長崎奉行所で取り調べられた日本人漂流民に対する判決も含まれています。今回取り上げるジョン万次郎は、のちに日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節団の一員として咸臨丸でアメリカに渡ることとなる人物です。画像1はその万次郎らに対する判決記録です(「犯科帳」第134冊、事件番号57)。判決には「彼国ニ而切支丹宗門勧ニ逢候儀無之、疑敷筋も不相聞間、無構国元江差帰ス条難有存へし、尤土佐守領分より外猥ニ住居いたす間敷」(外国においてキリスト教を勧められることもなく、疑わしいところもないので、お構いなしとし土佐国へ帰すのでありがたく存じなさい。ただし、土佐藩より外に住むことは禁止します)と書かれ、住む場所に制限はあるものの、罪は問われていません。

 

奉行所文書の中には「犯科帳」以外に、日本人漂流民を長崎奉行所で取り調べた際にまとめられた、漂流事件ごとの一件資料もあります。万次郎らの取り調べ記録も現存しています。資料名は「嘉永四年 薩州より送越候無人島漂流日本人一件」(画像2)といい、万次郎および、万次郎とともに漂流した同じ土佐国出身の伝蔵・五右衛門の合計3人に対する取り調べ記録です。この記録によると、万次郎らは天保12年(1841)に漂流し、鳥島へ漂着、アメリカ船に助けられハワイ・オアフ島へ到着します。その後、中国・上海行きのアメリカ船に乗り込み、琉球沖でボートに乗り換え、自力で琉球に上陸、薩摩を経由して、嘉永4年(1851)長崎に送られています。長崎港到着は嘉永4年9月晦日(30日)の夕方、そして、翌10月1日から長崎奉行所による取り調べがはじまります(このとき、踏み絵もおこなわれています)。奉行所では担当役人が任命され取り調べがおこなわれました。また、担当役人以外にも、オランダ通詞の森山栄之助によって、万次郎らが持ち帰った外国語書籍が調べられたり、唐絵目利の荒木千洲によって、万次郎らが持ち帰った船具や鉄砲等の絵が描かれたり、唐通事を通して長崎にいる唐人(中国人)に対して、万次郎らが供述した中国の地名の確認がおこなわれたり、万次郎らが供述した外国の暦や地名を長崎にいるオランダ人へ確認したりするなど、長崎でしかおこなえないような取り調べがおこなわれています。江戸時代、外国へ漂流した日本人は基本的に長崎へ送られ、取り調べられるのですが、長崎へ送られて来る理由もこのようなところにあるのではないでしょうか。(つづく)

 

【長崎県文化振興課 石尾和貴】