長崎学WEB学会
Nagasaki Studies Society on the Web
長崎資料から見る梅屋庄吉
Umeya Shokichi Seen by Nagasaki Documents
その4 梅屋庄吉の父・吉五郎と梅屋商店(1)
長崎の資料から見る梅屋庄吉の4回目。今回は、庄吉が養子となった梅屋吉五郎と、吉五郎が営んでいた梅屋商店について述べます。車田譲治著『国父孫文と梅屋庄吉』(昭和50年(1975)六興出版)など、庄吉に関して記された書籍を見ると、吉五郎は貿易商と米穀商を営み、梅屋商店は長崎市西浜町31番地にあったとされます。長崎に残る資料から見てみましょう。
庄吉の父・吉五郎の名前は、明治元年(1868)に調査された「崎陽(きよう)商人名前」の「売込商人」および「買請商人」の欄に、「西浜町 梅屋吉五郎」と出てきます(画像1)。これは「外務諸書留」(長崎歴史文化博物館蔵、以下ことわらない限り、資料は同館蔵)という外国人との関係についてまとめた資料の中に記されたもので、吉五郎は外国人に対して品物を売る商人、そして、外国人から品物を買う商人だったということになります。このことについては、「その1」でも述べましたが『孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情Ⅰ』(平成24年3月発行)に収録された諸氏の文章の中でも出典を明示されることなく引用されており、定説化しています。また、明治元年の調査に吉五郎が記されていることを考えると、梅屋家は遅くとも幕末期には長崎において商売を営んでいたと思われます。
吉五郎が営み、庄吉が育った梅屋商店は西浜町31番地にあったとされています。これについては、平成23年度(2011)に長崎歴史文化博物館で開催された「特別企画展 孫文・梅屋庄吉と長崎」に出品された、長崎に住む庄吉宛の封書(小坂文乃氏蔵)に「西浜町三十一番戸」と書かれており、間違いないことが確認できました。梅屋商店の所在地については、庄吉が拠点を東京に移した後の、大正8年(1919)のものになるのですが、「長崎市地番入分割図」という長崎市街にあった商店など各施設を地番毎に記した地図があり、その中の西浜町31番地を見ると「梅谷洋服店」と記されています(画像2)。ここが、吉五郎が営み、庄吉が育った梅屋商店の場所です。浜町アーケードの入り口につながる鉄橋(くろがねばし)から中島川を約20メートル上流にさかのぼった付近にありました。現在は、長崎電気軌道の路面電車が通っていて、その路面敷地になっています。
なお、地図には「梅“谷”」と記されており、「梅“屋”」とは違うのではないかという異論もありますが、当時の資料を見ると、屋号としての「○○屋」を同音の「○○谷」とすることはよくあり、梅谷=梅屋で問題ないと思います。ちなみに、以前このコラムの「長崎と広島」で取り上げた広島藩の用達商人も資料では「島谷」と「島屋」の両方出てきますが、同一の商人です。(つづく)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】
(4) Umeya Kichigoro, the Father of Umeya Shokichi, and Umeya Company [1]
長崎の資料から見る梅屋庄吉の4回目。今回は、庄吉が養子となった梅屋吉五郎と、吉五郎が営んでいた梅屋商店について述べます。車田譲治著『国父孫文と梅屋庄吉』(昭和50年(1975)六興出版)など、庄吉に関して記された書籍を見ると、吉五郎は貿易商と米穀商を営み、梅屋商店は長崎市西浜町31番地にあったとされます。長崎に残る資料から見てみましょう。
庄吉の父・吉五郎の名前は、明治元年(1868)に調査された「崎陽(きよう)商人名前」の「売込商人」および「買請商人」の欄に、「西浜町 梅屋吉五郎」と出てきます(画像1)。これは「外務諸書留」(長崎歴史文化博物館蔵、以下ことわらない限り、資料は同館蔵)という外国人との関係についてまとめた資料の中に記されたもので、吉五郎は外国人に対して品物を売る商人、そして、外国人から品物を買う商人だったということになります。このことについては、「その1」でも述べましたが『孫文・梅屋庄吉と明治大正長崎事情Ⅰ』(平成24年3月発行)に収録された諸氏の文章の中でも出典を明示されることなく引用されており、定説化しています。また、明治元年の調査に吉五郎が記されていることを考えると、梅屋家は遅くとも幕末期には長崎において商売を営んでいたと思われます。
吉五郎が営み、庄吉が育った梅屋商店は西浜町31番地にあったとされています。これについては、平成23年度(2011)に長崎歴史文化博物館で開催された「特別企画展 孫文・梅屋庄吉と長崎」に出品された、長崎に住む庄吉宛の封書(小坂文乃氏蔵)に「西浜町三十一番戸」と書かれており、間違いないことが確認できました。梅屋商店の所在地については、庄吉が拠点を東京に移した後の、大正8年(1919)のものになるのですが、「長崎市地番入分割図」という長崎市街にあった商店など各施設を地番毎に記した地図があり、その中の西浜町31番地を見ると「梅谷洋服店」と記されています(画像2)。ここが、吉五郎が営み、庄吉が育った梅屋商店の場所です。浜町アーケードの入り口につながる鉄橋(くろがねばし)から中島川を約20メートル上流にさかのぼった付近にありました。現在は、長崎電気軌道の路面電車が通っていて、その路面敷地になっています。
なお、地図には「梅“谷”」と記されており、「梅“屋”」とは違うのではないかという異論もありますが、当時の資料を見ると、屋号としての「○○屋」を同音の「○○谷」とすることはよくあり、梅谷=梅屋で問題ないと思います。ちなみに、以前このコラムの「長崎と広島」で取り上げた広島藩の用達商人も資料では「島谷」と「島屋」の両方出てきますが、同一の商人です。(つづく)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】