長崎資料から見る梅屋庄吉
Umeya Shokichi Seen by Nagasaki Documents
その7 梅屋庄吉が入塾した鍛冶屋町の佐藤塾(2)
今回は、梅屋庄吉が通っていた佐藤塾を考えるにあたって、「家私塾留」(長崎歴史文化博物館蔵)に佐藤乕三郎塾の位置として記された「第2大区6小区」が何町にあたるのか検討してみましょう。長崎県内の大区小区と町村名を対照した資料があると良いのですが、現在のところ確認できていません。そこで、この時代の複数の資料を調査し、大区小区と町名が併記されている長崎市中の町を抜き出し、100件ほどのデータを集めました。そして1つの町名について複数の大区小区データがあり、互いに矛盾しないものについてまとめたのが次の対照表です。
大区小区と町名の対照表
大区 小区 町名 大区 小区 町名 大区 小区 町名
1 1 馬 町 1 7 大村町 2 1 新大工町
1 2 西上町 1 7 樺島町 2 4 本紺屋町
1 2 東中町 1 7 外浦町 * 2 6 鍛冶屋町
1 3 引地町 1 7 万才町 2 8 銅座町
1 5 今 町 1 8 江戸町 2 9 丸山町
1 6 豊後町 2 1 大井手町 2 9 寄合町
この表から、第2大区6小区に鍛冶屋町が含まれていたことが分かります。庄吉の通っていた鍛冶屋町の佐藤塾が第2大区6小区の佐藤乕三郎塾であった可能性が高くなってきました。しかし厳密にいうと、第2大区6小区には鍛冶屋町だけではなく複数の町が含まれているわけで、これだけでは証拠になりません。別の資料から検討してみましょう。
画像3は「長崎県長崎区鍛冶屋町乙之部地図(旧出来鍛冶屋町地図)」(同館蔵)の一部分です。大正6年(1917)に写されたものですが、この地図のもとになった地図は、長崎市中が長崎区と呼ばれていた時代に作成されたものです(長崎区とは長崎が市制施行する前の行政区画で、年代は明治11~22年(1878~1889)頃)。地図を見ると当時の出来鍛冶屋町の地割りとその地主の名前が記されています。地主についてはその名前を消して、地図が写された大正6年当時の地主が書き加えられています。地図の8番地を見ると、佐藤乕三郎の名前が見え、その名を消して、地図が写された大正6年当時の地主と思われる門岡シケの名前が書き加えられています。佐藤乕三郎は出来鍛冶屋町の8番地に住んでいたのです(鍛冶屋町は今鍛冶屋町と出来鍛冶屋町に分かれていました)。佐藤乕三郎から提出された開業願(その6の画像2)を見ると、塾の位置は「居宅」つまり、自宅での開業とありますので、庄吉が入塾した鍛冶屋町の佐藤塾は、かなり高い確率で佐藤乕三郎塾だといえます。なお、今回取り上げた佐藤塾の位置について、平成23年5月4日付けの「長崎新聞」で発表した小論で取り上げたところ、期間限定で実施された「長崎通さるく 孫文との絆~梅屋庄吉・鈴木天眼・西郷四郎たち~」において、この小論に基づいて「佐藤塾跡」がコースに組み込まれました。(つづく)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】
(7) Sato-juku Private School in Kajiya-machi, at Which Umeya Shokichi Was Enrolled [2]
今回は、梅屋庄吉が通っていた佐藤塾を考えるにあたって、「家私塾留」(長崎歴史文化博物館蔵)に佐藤乕三郎塾の位置として記された「第2大区6小区」が何町にあたるのか検討してみましょう。長崎県内の大区小区と町村名を対照した資料があると良いのですが、現在のところ確認できていません。そこで、この時代の複数の資料を調査し、大区小区と町名が併記されている長崎市中の町を抜き出し、100件ほどのデータを集めました。そして1つの町名について複数の大区小区データがあり、互いに矛盾しないものについてまとめたのが次の対照表です。
大区小区と町名の対照表
大区 小区 町名 大区 小区 町名 大区 小区 町名
1 1 馬 町 1 7 大村町 2 1 新大工町
1 2 西上町 1 7 樺島町 2 4 本紺屋町
1 2 東中町 1 7 外浦町 * 2 6 鍛冶屋町
1 3 引地町 1 7 万才町 2 8 銅座町
1 5 今 町 1 8 江戸町 2 9 丸山町
1 6 豊後町 2 1 大井手町 2 9 寄合町
この表から、第2大区6小区に鍛冶屋町が含まれていたことが分かります。庄吉の通っていた鍛冶屋町の佐藤塾が第2大区6小区の佐藤乕三郎塾であった可能性が高くなってきました。しかし厳密にいうと、第2大区6小区には鍛冶屋町だけではなく複数の町が含まれているわけで、これだけでは証拠になりません。別の資料から検討してみましょう。
画像3は「長崎県長崎区鍛冶屋町乙之部地図(旧出来鍛冶屋町地図)」(同館蔵)の一部分です。大正6年(1917)に写されたものですが、この地図のもとになった地図は、長崎市中が長崎区と呼ばれていた時代に作成されたものです(長崎区とは長崎が市制施行する前の行政区画で、年代は明治11~22年(1878~1889)頃)。地図を見ると当時の出来鍛冶屋町の地割りとその地主の名前が記されています。地主についてはその名前を消して、地図が写された大正6年当時の地主が書き加えられています。地図の8番地を見ると、佐藤乕三郎の名前が見え、その名を消して、地図が写された大正6年当時の地主と思われる門岡シケの名前が書き加えられています。佐藤乕三郎は出来鍛冶屋町の8番地に住んでいたのです(鍛冶屋町は今鍛冶屋町と出来鍛冶屋町に分かれていました)。佐藤乕三郎から提出された開業願(その6の画像2)を見ると、塾の位置は「居宅」つまり、自宅での開業とありますので、庄吉が入塾した鍛冶屋町の佐藤塾は、かなり高い確率で佐藤乕三郎塾だといえます。なお、今回取り上げた佐藤塾の位置について、平成23年5月4日付けの「長崎新聞」で発表した小論で取り上げたところ、期間限定で実施された「長崎通さるく 孫文との絆~梅屋庄吉・鈴木天眼・西郷四郎たち~」において、この小論に基づいて「佐藤塾跡」がコースに組み込まれました。(つづく)
【長崎県文化振興課 石尾和貴】