Traces of the Edo Period Seen by Difference of Ground Elevation

Strolling around Nagasaki to Examine Difference of Ground Elevation [1]

★ブラタモリのこと★
 NHKのブラタモリという番組がおもしろかった。平成21年10月から始まった番組で、第1シリーズが15回、中断のあと第2シリーズが平成22年10月から22回、放送された。古地図等をもとに、全く変わってしまった東京の町なかに、古き時代の痕跡を探すというのは歴史好きにとっては、とても心地よい時間であった。

 

 なんと、この3月にはテレビ番組では初となる日本地理学会賞(団体貢献部門)を授与されたという。地理学の研究や普及に顕著な功績のあった団体に対して、大学の研究者等が集う学術団体が授与する賞だそうで、研究者の目から見ても、地理学の普及に貢献したと評価されたのだ。

 

 さて、その番組のなかで、タレントのタモリさんの「坂好き」には驚かされたし、「高低差に注目」ということは、目から鱗であった。どんなに大きな道路になろうとも、見上げるような高層ビル街に町の様子が変わろうとも、高低差は昔のままだということだ。坂がコンクリートの階段に、石の階段がアスファルトの坂道になっても、その曲がり具合や高低差はそのまま残っていたりするのだ。なるほど・・・。

 

 坂の町、長崎であれば、なおさらではないか。「長崎の坂の名前」(長崎東ロータリークラブ作成)では、長崎中心部の坂として30ほどの坂が紹介されている。長崎の坂のイメージはどちらかというと、市街地のすぐ近くまで迫ってきている山裾の坂のイメージがある。北の金比羅山・立山の裾野、東南の風頭の裾野・寺町界隈、旧居留地の南山手・東山手、それに稲佐山の坂である。

 

 しかし、周知のように長崎はもともと、戦国時代末期に、今の県庁から市役所あたりまで続く長い岬の尾根上にできた町であり、町の発展が尾根の上から下へと広がっていった。その尾根の丘の上と下は今でも急な坂道や階段がある。その後、17世紀前半(近世初頭)に市街地が広がっていった後でも高低差は残され、今も厳然とあるのだ。

 

★長崎の町の起こり★
 1570年に大村純忠が港を開き、翌年、岬の突端周辺に大村町・島原町・外浦町・平戸町・文知町・横瀬浦町の6つの町を造成したのが始まりである。
 豊臣秀吉政権下の1587年に直轄領となり、岬の突端から10町ほどが土地税(地子)を免除された。それが内町である。1592(文禄元)年に、内町は合計23町となり、築町を除く内町の原型ができる。北は岩原川(小川=こがわ)、南は通称地獄川が境界。最初に長崎の町の建設が始まってから約20年後のことである。以後、さらに町域が拡大され、地子の免除外の場所として、外町が形成された。1640年代、寛永年間終わり頃までには、銅座・新地を除く長崎の町全体がほぼ完成。1672(寛文12)年に、大きな町を分割するなどして内町26、外町54の惣町80町となる。
その後、1699(元禄12)年に、それまで長崎代官の支配下にあった外町が長崎奉行所の支配下に入り、支配面で内町・外町の区別はなくなる。

 

★高低差を歩く★
 そこで、今も丘上に残る長崎の発端となった古い町と、その後広がっていった丘下の高低差を実感できるルートを歩いてみた。範囲としては、ほぼ1590年代の長崎の町、内町の範囲である。そこに江戸時代の痕跡を探してみた。普段見慣れた場所、いつも通る場所にも、江戸時代の風景を思い描きながら歩くと、違った町を感じることができるかもしれない。

 

 参考にしたのは、布袋厚著『復元!江戸時代の長崎』である。江戸時代の明和年間(18世紀後半)に作成されたと思われる「惣町絵図」や、その他の古地図等を丹念に調べあげて、現在の地図に落とされている。長崎をブラタモリする(長崎では「さるく」といった方がいいか)時には、たいへん役に立つ労作で、全面的に利用させてもらった。

 

★丘の上と下をつなぐ坂・階段★
「惣町絵図」に尾根の丘の上と下を分ける崖や石垣に階段が設置されている場所を古地図上に落としてみた。地図は簡略化されて見やすい「享和二(1802)年肥前長崎図」(長崎歴史文化博物館蔵)を用いた。数字は丘の上と下をつなぐ階段を岬の突端である現在の県庁から見て、右回りに数字を振ってある。この数字の順番に歩いていくと、ほぼ内町の周囲を“さるく”ことができる。全部で、20の階段・坂があるが、現在、名前がついているのは7つである。赤い番号は今も階段として残るところである。

 

★県庁から桜町まで★
<1番>県庁第1別館の敷地内。
<2番>県庁坂。江戸時代は幅広の階段があったが、その面影はない。大波止に下る県庁坂の途中、同じ地点から2本の道が東北東へのびる。丘の上と下を分ける崖に接した道である(右写真)。
江戸時代も崖の上と下の両方に道がある。左の崖下、樺島町へと向かうと、すぐに「とも綱石」がある。崖下近くまで海であった頃のとも綱石だという。また、「惣町絵図」で見ると、この崖下には井戸の印が列をなしている(階段2から階段3までの約75mほどの間に6つ)。今でもその名残がある。

<3番>
急な坂。明治31(1898)年の「長崎人力車賃銭図」で見ると、ここはまだ階段である。このまま崖下に沿って歩いて行くと、右側に見える崖の高さに、丘の上と下の高低差を実感できる。崖下にある樺島町公民館の周辺にも、井戸の痕跡を見ることができる。今はコンクリートの壁になっており、法面の斜度も江戸時代と比べると変わっているだろうが、この高低差はそのままだろう。

<4番>ここは今もコンクリートの階段として残っている。左にカーブしながら道沿いに行くと、「惣町絵図」に描かれている溝が今も残る(左写真)。この溝は今も丘の上まで続いているようである。
<5番>今はアスファルトの坂道。坂を右に見て歩いて行くと、左側に「惣町絵図」にある溝の痕跡と思われる細い道がある。また、「惣町絵図」には樺島町と船津町の崖下に井戸が見えるが、本五島町には見えない。しかし、天保 5(1834)年の「本五島町絵図」を見ると、崖下にはいくつも四角の井戸の印が見える。今はその痕跡は見えない。右側は石垣となり、このあたりが一番、崖の高さを実感できる場所である。石垣の高さだけを見ると、もっとも高いところで5m~6mはあるだろうか。
<6番>急な坂道。KTN社屋と坂本屋別館に挟まれた坂道もかつては階段であった。この坂の上としたでは、地図上では7mほどの高低差である。坂の下、すぐ横に江戸時代に作られたほこらがある(扉の表面には「文化十二乙亥菊秋 元武謹立」とある)。今でも地元の方々によって花などが供えられ、祀られている。聞くところによると、ここにもかつて井戸があり、表面上には隠されているが、その井戸の水は今でも道路際で使われているそうである。そこを過ぎると江戸時代の道は右に緩やかにカーブしているが、今は直線に付け替えられている。
<7番>急な坂道。「惣町絵図」では2つの階段が交差しているが(右写真)、大きく様変わりして1本の道になっている。この坂道を上っていくと市立図書館へつながるが、ここではそのまま瓊の浦公園の方へ向かう。
<8番>コンクリートではあるが今も階段が残る。
<9番>坂道。明治31(1898)年「長崎人力車賃銭図」では、まだ階段のまま。
<10番>豊後坂。明治31(1898)年にはすでに階段はなく坂道。ある日のこと、修学旅行の女子生徒が、「キュー(急)」と叫びながら下って行った。町なかにしてはやっぱり、急な斜面である。瓊の浦公園の端を過ぎ、左に公衆トイレを見ながら、進行方向(東北の方角、桜町公園の方角)を見ると、電車通りを挟んで道がまっすぐ続いているのがわかる。電車道で大きく斜めに分断されているので、あまり意識されないが、江戸時代のままの道である(下写真)。

 

 

<11番>ささやき坂。進行方向から右手の坂の途中に、この名前の喫茶店があることから付けられた。階段はなく急な坂道。かつて二の堀があった場所でもある。
代官坂市役所の下の横断歩道を渡り、右折して進むと、わずかだが小川が駐車場脇に見える。内町と外町の境となる川である。ここから、ほぼ直角に折れるのも、江戸時代のまま。代官坂を上り県庁からまっすぐ伸びる大通りである国道34号線にぶつかる。左に長崎代官の高木家の屋敷跡(桜町小学校)を見ながら横断歩道を渡る。ちょうどここが折り返し地点となる。(つづく)

 

【長崎県文化振興課 山口保彦】