キリシタン文化編5 教会と学校が長崎の歴史を語る

 


宣教師は鎖国が解かれた日本を訪れたが、布教はままならず、可能となったのは1873年にキリシタン禁制の高札が撤廃されてから。長崎では、布教とともに日本人のための学校や福祉施設がつくられ、居留地は「学び舎の丘」となった。そして、県内各地に、信仰の証である教会が建てられた。信徒が財力と労力を捧げた教会は、いまも生活と精神の拠り所として、風景と融け合う。

 

旅する長崎学5 キリシタン文化V 教会と学校が長崎の歴史を語る 目次

開国日本 キリスト教再来第一歩は長崎から
第1章 居留地の外国人だけに許された信教の自由
第2章 プロテスタント宣教師フルベッキの功績
第3章 ザビエルがまいた種を探しに来たパリ外国宣教会
第4章 禁教下の“宣教準備”の出版にド・ロ神父らが活躍
●寄稿 長野宏樹 プチジャン神父、朝鮮の聖人の遺骨をあずかる
[特集II]宣教師が尽くした日本の教育事業
第1章 「生命の水湧きいづる教育を」<活水学院>
第2章 「幸福なるかな平和ならしむる者」<鎮西学院>
第3章 学び舎の丘にあったプロテスタント系学校
第4章 「海の星なる無原罪の聖母よ」<海里学園>
第5章 教育と児童福祉、女性の自立に愛の手を<マリア園>
第6章 信徒を支えたカトリック系の学校と福祉施設
●寄稿 坂井信生 明治期、宣教師たちの宗教者・教育者としての苦難の道
●大浦外国人居留地 学び舎の丘マップ・学園変遷図
[特集III]キリシタンの夢 日本人のための天主堂が建つ
第1章 外国人宣教師が教会建築の先生
第2章 教会建築の第一人者 鉄川与助は仏教徒の棟梁
第3章 教会の数だけ信徒の苦労話がある
[特集IV]教会がある風景は長崎の歴史を語る文化遺産
第1章 山にある天主堂
第2章 浜にある天主堂
第3章 町にある天主堂
●寄稿 山田由香里 紐差教会堂にみる海を通じた司牧
[特集V]巡礼地長崎で平和を考える
第1章 原爆の廃墟から立ち上がる教会
第2章 かぎりない愛を救済に注いだコルベとゼノ
第3章 長崎の公式巡礼地の丘に立つ

 


[巻頭特集]開国日本 キリスト教再来第一歩は長崎から
  日本は、1858年の安政の修好通商条約の調印によって開港し、徳川家康が禁教令を出してから245年という時を経て、1859年、キリスト教の宣教師たちが日本の土を踏んだ。プロテスタント教会は初めての宣教を、カトリック教会は再宣教をスタートさせたのである。
 その第一歩は、長崎からプロテスタント宣教師によって、はじまった。キリシタン禁令の高札が撤去される14年前、明治維新の9年前のことだった。

[特集II]宣教師が尽くした日本の教育事業
  1873年のキリシタン禁制の高札撤廃後、長崎ではプロテスタントもカトリックも宣教活動が可能となり、外国人宣教師たちは教会を建てたり、学校をつくることで、日本人に信仰をよびかけた。とくに学校は、宣教活動のうえでは、新しく伝道者を養成し、また気兼ねなくキリスト教にふれることのできる場所であった。さらに日本人にとっては進歩的な西洋文化を吸収できる場所でもあった。そしてそれまで日本では軽んじられていた女子教育に力が注がれた。

[特集III]キリシタンの夢 日本人のための天主堂が建つ
  キリシタン禁制の高札撤廃から約25年、カトリック信者が全国に5万人と増えたとき、長崎に3万人の信者がいた。 全国に70の教会ができたとき、長崎に50の教会があった。パリ外国宣教会からやってきた、建築学の素養のある宣教師たちは、教会を設計し、日本人大工を指導した。 宣教師から西洋建築を学んだ日本人大工がいたからこそ、県内の各地に完成度の高い教会をつくることができたのだった。 信徒たちは、ようやく公の祈りの場をもつことが可能になった。

[特集IV]教会がある風景は長崎の歴史を語る文化遺産
  教会は、偶然そこにあるわけではない。そこに歴史があるからこそ、歴史をつくる人間がいるからこそ、教会はうまれた。どんなに小さな教会にも、そこにあるわけがある…

[特集V]巡礼地長崎で平和を考える
  1981年2月25日、平和の使徒 教皇ヨハネ・パウロ2世は、広島においての平和アピールで、広島・長崎は戦争の残酷さを世界に警告しつづけるまちだと宣言した。
 そして、禁教下でパーパ(ローマ教皇)の使者を待ち続けたキリシタンの子孫たちがいる長崎に、そのパーパ(教皇ヨハネ・パウロ2世)が姿を現した。彼は巡礼者として長崎を訪れた。